「汝自身を知れ」とは、古代哲学者ソクラテスの言葉です。
なぜ「他人」ではなく「自分」なのか?
それは「自分」ほど正しく見られないものはないからです。
人って、生涯、自分の本当の顔を自分で見ることはできないですよね。
鏡に映っている姿も、あくまで光の反射で映し出されたものであり、他人が見ているあなたの本当の顔とは異なります。
つまり、あなたが思い描いている「自分」と、現実に存在するあなた自身は決して同一ではなく、自分では正しく見ているつもりでも、傍から見ればずいぶん違っていたりするわけです。
では、なぜ自分を正しく知る必要があるのでしょう?
それは、自分が本当に求めるものを理解しない限り、何を得ても幸せにはなれないからです。
そしてまた、自分自身の弱さ、脆さ、こころの癖、好きなもの、苦手なもの、良い面も悪い面も含めて理解していないと、望まぬ事が起きた時、「どうして、どうして?」と慌てふためき、落ち込んでしまう。
自分という人間を知っていれば、「こういう状況になれば、こう感じるだろう」と予測できることも、自分自身に対して無知であるが為に、必要以上にこころを乱され、周りを恨んだり、自信を無くしたりしてしまうわけです。
アルバイト一つとっても、「対人的な業務は苦手」と知っていれば、レストランや販売のような仕事は考慮するでしょう。
でも、自分で苦手なことが分かっていなければ、「時給がいいから」「お洒落だから」という理由で飛びついてしまう。
そして、苦手な業務に神経を消耗し、「私はもっと出来るはずなのに」と落ち込み、厳しい指導をする職場の先輩を逆恨みする。
そうした「自分に対する無知」は、アルバイトに限らず、恋愛でも、友人でも、趣味でも、そう。
人間は、自分が本当に欲するものに向かわない限り、決してこころが満たされることはないし、自分自身を正しく理解しなければ、たえず周囲や物事に翻弄され、無意味に苦しむばかりなのです。
おそらく、世の多くの人間は、「自分を知る」ことより、他人のあら探しの方が得意。
自省より批判の方が、より気持ちを落ち着かせてくれるものだと思います。
そうして、他に目が向いている限り、自分とじっくり向き合うことはできないし、年をとるほどに、自分を知ることが恐ろしくなっていくでしょう。
そうなると理屈ばかりが身について、「頑固な人」と思われるようになるのです。
こころが柔軟な若いうちに、苦い思いも味わいながら、「自分を理解すること」に努めた方が、うんと生きやすくなるのです。
そうして、自分を理解する過程で、物事の限界を知ったり、身の程を知ることもあるでしょう。
人が「徳」と呼ぶ知恵や謙虚さは、多くの場合、自分の至らなさから勝ち得るものです。
自分の中に弱いところやイヤな部分がたくさん見つかったからといって、何も恐れることはないのです。
私たちは生涯、「自分自身」と付き合ってゆかねばなりません。
人生は道であり、「自分」という車を楽しくドライブするには、車の機能やクセを詳しく知っておく必要があると思うのです。