【「愛」について】

日本語で「愛」とは一語ですが、古典ギリシア語では「愛」には3種類+1種類の意味があります。

アガペー、フィリア、エロース(エロス)、(ストルゲー)です。人間にはこの3つ+1つの愛が必要だと言われています。

アガペー・・・母なる愛、無償の愛、愛の中でも「自己犠牲が伴う愛」として捉えられるのはアガペーだけです。

フィリア・・・友情、友愛、純粋なこころで愛すること。兄弟愛。

エロース(エロス)・・・必ずしも肉体的なことを表現したものではなく、「エゴ」と「エゴ」のぶつかり合いの(お互いのエゴを理解しあう)愛です。男女の愛や性が伴う愛。

(ストルゲー)・・・家族愛、血縁に基づいた強い家族愛、つまり自然の情愛。

子供が生まれると、母からアガペー(無償の愛)を学び、母離れしたあと思春期までフィリア(友情)を学び、そのあとで男女や性愛の愛(エロース・エロス)を学ぶと言われます。

そして親になり、また子供にアガペーの愛を伝えて行きます。

この順番で愛を得られないと(母なる愛を得られない子供)、そのあとの2つの愛も自然に習得するのが難しくなります。そして「ストルゲー(家族愛)」は、親から子供まで全ての中に存在しなければなりません。

また、この3つ+1つの愛は交互に表れたりします。親子でもアガペーからフィリアの愛に変化しますし、エロース(エロス)の愛がアガペーやフィリアの愛になったりもします。

ナザレのイエスの弟子は、最初はアガペーの愛でキリストを愛しましたが、後にフィリアの愛に変化したとも言われています。

上記の解説は、カトリック系の本に書いてあったことですので、探せば3つ+1つの愛についてもっと詳しく書かれていると思います。

完全な存在である神から不完全で罪深い人間への愛
無差別、無償、無限の愛 ⇒ 隣人愛のモデル、民族を超えて広まる

ナザレのイエスは完全な人であったので、自らが十字架にかけられ血を流し罪深い人類の罪を背負いました。これがアガペーの愛です。

旧約では神に羊を捧げていましたが、新約ではナザレのイエスが純粋無垢な神の子羊としてその血を捧げました。このことでイエスは救世主となり、たくさんのキリスト教徒が生まれたと言うことではないでしょうか。

「隣人愛」はイエスがたとえ敵であろうと「隣人を愛しなさい」と言った言葉です。

敵や罪びとを愛しなさい。
と言ったイエスの愛は「無差別」であり、何の見返りもなく人類を罪から救った愛は「無償」であり、アルファでありオメガであるイエスは私の言葉は永遠であると言っています。

つまりイエスの愛は「無限」なのです。

昔、ユダヤ人は律法によって神を崇拝していました。
旧約を読むとたくさんの戒律があります。

ですが、イエスは戒律よりも大事なのは「愛」である。
と述べ伝え人気が出たため、それまでの信仰を覆す危険思想と思われました。
また、司祭はその地位を守るためイエスを殺す必要がありました。

たとえば、ユダヤ人が売春婦に石を投げるのを叱ったり、当時嫌われていた収税人をかばったり、当時戒律を守らずに罪びととして虐げられた人々をイエスが愛した例がたくさんあります。

しかし現在も争いは耐えません。
ナザレのイエスが問いたのはキリスト教ではありません。
イエスの「哲学」、言い換えるならイエスの「思想」を問いたのです。

多くのひと達が勘違いしているのは、イエスは民衆に自分の「哲学」や「思想」を問いたのであって、キリスト教を説いた訳では無いと言うことです。

そしてキリスト教を始めとする昔から続く宗教、神道、仏教、ユダヤ教、イスラム教など、法典と呼ばれる書物は、それぞれの宗教の元となるひと(哲学者・思想家)の言葉を弟子たちが「書物化」し、それぞれ独自の解釈を加えられた後に説かれています。

ここに大きな溝が生まれて来るのです。

偉大な宗教家として祀られているひと達は、自分で書物を書いたり残したりはしていません。
弟子たちが書き記し、それぞれの解釈が加えられ広まっているのです。

ですから、仏教にしても幾つのも宗派が存在しますし、またキリスト教でもカトリック・プロテスタントの中に更に細かく宗派が存在します。

また、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は、源流を辿れば同じ「創世記(旧約聖書)」だったり「天地創世」「創世神話」だったりします。
そのことは、この3つの宗教の起源の場所が同じエルサレムであることからわかります。

そして自分たちと近い、元々の源流が同じであるがゆえに分かり合えない、譲れない部分があるのではないかと私は思います。
それはカウンセリングの場でも同じです。

例えば、親子であるからお互い分かり合えるだろうと思っていても分かり合えないとすると、それは近ければ近いほど憎しみに変わり、相手を認めたくない、分かり合えるはずだ、許せないと言った感情が出てくると思うのです。

日本人は宗教心がほとんどの方はありませんが、世界に行くと宗教心は物凄く大きいです。
そして、それは民族を超えて強い繋がりを持っています。
わたし達は、同じ倭(大和)民族であり、信仰心をほとんどの方たちは持っていません。

では、何をこころの拠り所にして行けばいいのでしょうか。
私は昔からの日本文化の中で培われて来た「道徳」にあるのではないかと思います。
しかし残念ながら第二次世界大戦以降、日本人は「教育勅語」の関係で、正しい「道徳教育」が行われなくなってしまっているように感じてなりません。

そしてアメリカから日本に、アメリカの資本主義的思想が正義であると言う名のもと経済成長を遂げ、今やGDPでは世界トップクラスまで登り詰めました。
しかし、それと同時に失われて来たものも沢山あります。

経済成長を遂げる日本の中で、経済優先で自国のことについてや日本社会について関心が薄まり、利己主義的思想があたかも成功者のような風潮で、富を得た者が成功者として称えられ、今の日本社会ではそう言ったひと達が成功者のお手本であるかのよう、賞賛されているよう感じてなりません。

そしてその結果、世代格差や貧富の差、そして自分や家族といった身内以外のことについては興味を示さなかったり、観て見ない振りをして来たのではないでしょうか。
それが今になって大きなつけとなり日本国内は逼迫し、世界における日本国の情勢は厳しいものになっているように感じてなりません。

皆さんもご存知のマザー・テレサは言いました。
「愛情の反対は、無関心・・・」

この言葉こそ今、日本社会に漂う風潮を表しているのではないでしょうか。
そして私たちの住む日本国土は今、大きな転換期に来ているように感じます。

それは日本を取り囲む各国(東シナ海側の国・日本海側の国・オホーツク海側の国・太平洋側の国)が、
三国志のように日本を取り囲み、睨みあっているからです。
そして、そのことに対して日本国民や日本国政府、そしてマスメディア等は、観て見ない振りをしているように感じるからです。

おそらく一部のお金のあるひと達は、ひょっとしたら何時でも日本国を捨て、第三国に逃避するかも知れません。
現実に東日本大震災(3.11)の福島第一原発事故で、関東地方に放射能汚染物質が及ぶ恐れが出た時に、西の方や海外へ出国したひと達がいたのですから・・・

多くのひと達は愛国心など持っておらず、ビジネスとして日本国に留まる必要性が無くなり、他の第三国のほうが治安や安全が担保され、生活する上で困らないのであれば、簡単に日本国民を捨てるのでしょう。でも私は思うのです。

おそらく、何も政治や自国のことについて今まで真剣に向き合ったことがないひと達が、第三国に逃避したとしても、前からその地に住むひと達に、後ろ指を刺されながら生活を送ることになるでしょう。
そして自分の生まれたルーツなんて気にしないで、その第三国のひと達の渦に飲み込まれ、淘汰されて行くのではないかと私は思います。

それだけ世界各国のひと達は、宗教や民族と言うものを大切にしていますし、自国民としてのプライドも持っています。
だから日本人が旅行や留学をした時など、地元民から日本の「宗教」や日本の「文化」「伝統」と言うものを聴かれ、尋ねられたりするのです。

そして海外の地元民から日本のことを質問された時に、日本人は初めて自分が「日本人」であることを意識させられることになるのです。海外の国へ永住・移住する時には、ほとんどの国では、自国の「歴史」「文化」「語学」をチェックされ、それなりの「宣誓」を交わして、国民としての義務を果たすことを誓うのです。

わたし達は愛国心までとは行かないまでも、日本国民であると言う「プライド」を持つ必要があります。
それがあって初めて、日本国の「政(まつりごと)」を執り行うことが出来るのです。その中には当然、選挙等へ参加して国民の権利と義務を果たす必要があります。

仮に、選挙権を持っているのに行使せず、国や自治体と言った「政(まつりごと)」を行っているひと達を非難するひと達がいたとしたら、それは自分の権利と義務を果たさなかった自分にも責任があるので、国や自治体と言った「政(まつりごと)」を行っているひと達を責める権利も、当然私は無いと思っております。

スポーツにおいても同様で、国際大会で勝つためには、選手(プレイヤー)としての「誇り・プライド」と共に、日本国民としての「誇り・プライド」がなければ、いくら体力的・技術的力があったとしても、精神面では負ける可能性が大きいでしょう。
わたし達はもっと、日本国民としての「誇り・プライド」を持って、視野を広げていろいろな日本のことに関心を寄せる必要があるのではないでしょうか。

それがきっと自分の精神的支柱となって、また「自分は社会の為に、社会は自分の為に」と言った、利己主義的な資本主義社会ではなく、地域全体や社会全体、そして世界全体を大切にする「共和主義」の社会へと転機するきっかけになればと思っております。そしてそれが結果的に、「国民の幸せと世界の平和」に繋がるのではないでしょうか。