私たちが、日常生活において様々な感情を、瞬間、瞬間に感じ、思い、考えながら生きている。
例えば、満員の通勤列車で足を踏まれて「ムッ」としたが、不可抗力なので仕方がないと、こころを落ち着かせ謝罪の言葉にも快く大丈夫ですと答える。
本当は下ろしたての靴でとてもショックなのだが…
会社に着くとまだ出社していない社員が2人もいる。
「また遅刻か、あいつら・・・」、先程の怒りを引きずっているので、心の中に怒りが満ちていく。
すると電話が鳴り、社員が受話をとると遅刻した社員からだった。
「電車が人身事故で立ち往生している」とのこと。
先程の怒りが「すぅー」と引いていくのと同時に、またか・・・
と決めつけてしまった自分を反省するのだった。
例えが少し長くなったが、朝の1時間でもこれだけの感情の起伏があり、
怒りが事実確認を怠り、またか・・・
と決めつけてしまう過ちを犯した。
このようなことは日常茶飯事で、いつでも取り返しのつかない失敗が起きる可能性を秘めている。
もし、情動(怒り)をコントロールすることができるならば、今起きている様々な問題のほとんどが解決できるように思うのだ。
情動をコントロール(マネージメント)するには・・・
情動をコントロール(マネージメント)するには、情動の自己認識、「今、自分は怒っている」なという認識ができれば、既に自分が怒っている理由を客観視している訳で、「考える知性」即ち、事態を把握し、熟慮し、思慮分別をつける部分が働き、怒りに任せた行動を慎み、冷静な自分を取り戻すことが可能になると思う。
ただし頭では分かっていても、どのようにして本能的に感じる情動を抑え怒りを鎮めればいいのか…?
残念ながら、怒り心頭に達している場合は効果がないようだ。
どうやら、怒りをコントロール(マネージメント)するには常日頃の鍛錬が大事のようで、訓練する必要がありそうだ・・・
そして、もしできるなら今あなたに活力を与えている衝動がすべて奪われた時を考えてみて欲しい。
そして想像してみてください。あなた自身が物事に対して好意や敵意を持つことなく、希望や不安を全く感じない状態で、世界がただ単にあることを・・・
世界の何処もたいして重要ではなくなり、世界のあらゆる物事は、意味も特性も表現も展望も持たないものになるのではないでしょうか?
世界が何らかの価値や興味や意味を持つのは、見るもののこころがそうさせているからなのです。
「自分の感情を認識し、怒りをコントロール(マネージメント)し、失敗してもあきらめず、他人の気持を思いやる。」
自分自身にそんな平穏なこころのゆとりがあれば、もっと世界の見方が変わるんだろう。