心理学の中でも、精神医療で解離性障害者、つまり「二重人格」や「多重人格」に興味を示される方も多いかも知れません。
「解離性障害」は本人にとって堪えられない状況を、離人症のようにそれは自分のことではないと感じたり、あるいは「解離性健忘」などのようにその時期の感情や記憶を切り離して、それを思い出せなくすることでこころのダメージを回避しようとすることから引き起こされる障害です。
その中でも「解離性同一性障害」は、その中でもっとも重く、切り離した感情や記憶が成長して、別の人格となって表に現れるものです。
少し前の映画ですが、『羊たちの沈黙』で天才精神科医にして連続殺人鬼でもあるハンニバル・レクターが人気を博したり、実在の解離性同一性障害者を描いた『24人のビリー・ミリガン』が有名だと思います。
【24人のビリー・ミリガンの内容を少し説明すると】
オハイオ州の強盗強姦(ごうかん)事件で逮捕・起訴されたビリー・ミリガンという名の男性が、心理学者と話す中、「ぼくはビリーじゃない」「ビリーは眠ってる」と言い出す。弁護士らが精神鑑定を求め、ビリー本人のほかに23もの人格を持つ解離性同一性障害者(当時は「多重人格者」)であることがわかる。
交代人格には女性や子供もいたが、彼の犯行は「フィル」「ケヴィン」など凶暴な人格によるものだった・・・
と言うような内容です。
先日、この「解離性二重人格(多重人格)」のケースについてのカウンセリングを検討してみた。
生理学的障害ではなく、心因性(ヒステリーなどのように、こころの状態、たとえば不安や願望などによって引き起こされるもの)の障害であり、「解離性障害」を発症する人のほとんどが幼児期から児童期に強い精神的ストレスを受けているとされている。
そのストレス要因として、一般にいわれるのは・・・
1)学校や兄弟間のいじめなど
2)親などが精神的に子供を支配していて、自由な自己表現が出来ないなどの人間関係のストレス
3)ネグレクト(児童虐待)
4)家族や周囲からの情緒的、身体的虐待、性的虐待
5)殺傷事件や交通事故などを間近に見たショックや家族の死など
また、愛着 (attachment) との関係。
幼児期の生育環境を愛着関係 (attachment) と解離性障害の関係も指摘されている。
ビリーという極端な多面性を持った存在、またそれぞれの交代人格たちが、あまりに生き生きと魅力的に描かれすぎていて、中には芸術家肌や外国人もおり、この障害が虐待からのサバイバルを目的として生じることを知らなければ、「ひとりでたくさんの人生を生きている人」というあこがれの対象にもなりかねない。
この作品が出版される前、80年代半ばから日本ではちょうど「私さがし」と呼ばれる自己探求、自己啓発のブームが起こっていた。しかし、誰も平凡な答えにたどり着きたいわけではない。
「私さがし」の潮流は自己愛と連結して次第に「私の中に眠る無限の可能性」を目指すようになり、さらに「多少ブラックであっても“実はすごい人”でありたい」と願う人も出てきた。と言う論評を精神科医の香山 リカさんは述べている。
そしてこう結んでいる・・・
臨床の場にも「私、多重人格かも」と訴える人たちが押し寄せるようになった。その中には、医学的にそう診断できる人と先ほどの「ブラックな私さがし」の答えとしてそこにたどり着いた人とがいた。
しかし、その境目はあいまいで、私は「もしあの本が出なかったら、多重人格はこれほどポピュラーな病にならないままだったのでは・・・」とも想像したのだ。
「私さがし」のブームは続き、95年には『ソフィーの世界』という哲学入門書がベストセラーとなったが、少女が「あなたはだれ?」と書かれた謎の手紙を受け取って、哲学探求の旅に出るという本書も「私さがし本」として読まれたのだろう。
生きていくのはつらい。
そして、「自分が思っているよりあなたはずっとすごい」と誰かに言ってもらいたい。
とはいえ「私さがし」は本の中の旅にとどめ、現実では平凡な自分をやさしく受け入れるべきではないかと私は個人的に思う。
そして、この「私さがし」は2014年ベストセラーになった岸見 一郎 先生のアドラー心理学『嫌われる勇気』にも同じことが言えて、いつの時代も「私さがし」という名の自己啓発に惹かれる人間という生き物を、心理学的に客観的に観ることができたのは、心理学に身を置いたことの収穫の一つでもある。
そうそう、本題の解離性障害者に対するカウンセリングはどうするのか?!
については、企業秘密です(笑)