ユングとフロイトの大きな違いは、「無意識なるもの」をどの様に評価するかという点に存在すると言っても過言ではありません。フロイトにおける「無意識」とは、どこまでも意識にとっては望ましくない内容であり、自我によってコントロールされるべき対象を意味します。
それはまた自我の防衛理論にも伺うことができますし、彼の「こころの理論」の全体に及ぶものでありました。近代の科学技術の登場によって、自然界は人間の自我によりコントロールされるべき対象となりましたが、フロイトの精神分析学の登場によって「こころという自然」も、技術的に操作される対象となったのです。
一方、ユングにおいて「無意識」とは、必ずしも意識によってコントロールされるべき対象ではありません。ユングは無意識それ自体が、ある種の自律性と秩序を持った存在であると言っています。
これは、「こころ」というものが意識によるコントロールを超えて、自らしかるべき方向へ変容していくものであるという考え方で(当然そこには自我の営みも存在しますが)、こころの目的論的志向性に重なるもであると言えます。