【汝自身を知れ】

「汝自身を知れ」とは、古代哲学者ソクラテスの言葉です。

なぜ「他人」ではなく「自分」なのか?
それは「自分」ほど正しく見られないものはないからです。

人って、生涯、自分の本当の顔を自分で見ることはできないですよね。
鏡に映っている姿も、あくまで光の反射で映し出されたものであり、他人が見ているあなたの本当の顔とは異なります。

つまり、あなたが思い描いている「自分」と、現実に存在するあなた自身は決して同一ではなく、自分では正しく見ているつもりでも、傍から見ればずいぶん違っていたりするわけです。

では、なぜ自分を正しく知る必要があるのでしょう?
それは、自分が本当に求めるものを理解しない限り、何を得ても幸せにはなれないからです。

そしてまた、自分自身の弱さ、脆さ、こころの癖、好きなもの、苦手なもの、良い面も悪い面も含めて理解していないと、望まぬ事が起きた時、「どうして、どうして?」と慌てふためき、落ち込んでしまう。

自分という人間を知っていれば、「こういう状況になれば、こう感じるだろう」と予測できることも、自分自身に対して無知であるが為に、必要以上にこころを乱され、周りを恨んだり、自信を無くしたりしてしまうわけです。

アルバイト一つとっても、「対人的な業務は苦手」と知っていれば、レストランや販売のような仕事は考慮するでしょう。

でも、自分で苦手なことが分かっていなければ、「時給がいいから」「お洒落だから」という理由で飛びついてしまう。
そして、苦手な業務に神経を消耗し、「私はもっと出来るはずなのに」と落ち込み、厳しい指導をする職場の先輩を逆恨みする。

そうした「自分に対する無知」は、アルバイトに限らず、恋愛でも、友人でも、趣味でも、そう。

人間は、自分が本当に欲するものに向かわない限り、決してこころが満たされることはないし、自分自身を正しく理解しなければ、たえず周囲や物事に翻弄され、無意味に苦しむばかりなのです。

おそらく、世の多くの人間は、「自分を知る」ことより、他人のあら探しの方が得意。
自省より批判の方が、より気持ちを落ち着かせてくれるものだと思います。

そうして、他に目が向いている限り、自分とじっくり向き合うことはできないし、年をとるほどに、自分を知ることが恐ろしくなっていくでしょう。
そうなると理屈ばかりが身について、「頑固な人」と思われるようになるのです。

こころが柔軟な若いうちに、苦い思いも味わいながら、「自分を理解すること」に努めた方が、うんと生きやすくなるのです。
そうして、自分を理解する過程で、物事の限界を知ったり、身の程を知ることもあるでしょう。

人が「徳」と呼ぶ知恵や謙虚さは、多くの場合、自分の至らなさから勝ち得るものです。
自分の中に弱いところやイヤな部分がたくさん見つかったからといって、何も恐れることはないのです。

私たちは生涯、「自分自身」と付き合ってゆかねばなりません。
人生は道であり、「自分」という車を楽しくドライブするには、車の機能やクセを詳しく知っておく必要があると思うのです。

【無知の知】

古代ギリシアの偉大な哲学者ソクラテス。
哲学者プラトンの師匠でもありソクラテスの没後、プラトンを通じてその哲学が後世に伝えられ、西洋哲学の主流となりました。

そのソクラテスは、死刑宣告を受けて、獄中で毒を飲んで亡くなりました。
衝撃的なのですが、なぜ死刑宣告を受けたかというとソクラテスの名言「無知の知」に関係があるのです。

当時、ソクラテスは、現在のギリシアのアテネで精力的に活動をしていました。
その活動で、アテネ市民に、対話的問答を通じて、相手に無知ということを自覚させようとしたのです。

ソクラテスは、「賢い者ほど、無知であることを自覚しよう」ということを伝えたかったのです。
しかし、その活動は、アテネ市民には受け入れられずにそして、告発されて、時の権力者から死刑宣告を受けたのです。

その時、ソクラテスの弟子たちは脱獄を勧めたのですがソクラテスは「悪法も法」だと言い、死刑宣告を受け入れて死刑執行として、毒を飲んで亡くなったのです。

そのソクラテスの有名な哲学、名言「無知の知」とはどうゆう意味が隠されているのか?
ということになります。

簡単に言えば、この名言は「自分は何も知らない」ということを自覚すれば、それだけで、他の人よりも優れているんですよという考えになります。

なぜそうなるかというと、「自分は何も知らない」という「謙虚さ」を持つということです。
得てして人は他人に対して、優位に立ちたがり知ったかぶりをしたりしてしまいます。

知ったかぶりをしてしまうと人の成長はそこで止まってしまいます。

深く考えもしないし、思考が停止してしまうのです。
「自分は何も知らない」ということを自覚していればそこから、物事をよく知りたいという探究心が生まれて学問が発展していき、未来が開けていくということです。

哲学とは、学問の入り口ですから。
今の思いこみを改めて、哲学や学問の基本姿勢を示した言葉が「無知の知」になるんですね。

ここで、「自分はバカだ」とか「頭が悪い」とかという意味では決してなくて、「自分には知らないことがある」と自覚することで、成長するということなんです。

そして、「自分の知らないことを他の人は知っている」と自覚することで、人への謙虚な気持ちや感謝の心が育まれるという訳になるのです。

哲学というと、難しく感じるかもしれませんが、人生にはさまざまな事や問題があります。
そのことに対して「正しい答えを導いていく」というような学問になります。

そのような意味で、「無知の知」というソクラテスの名言に従って、行動することで人生が開けてきたり、人生の正しい歩き方が見えてくるのではないでしょうか?

【真・善・美】

この言葉は、人間の理想の状態を表した三つの大きな価値概念です。
古代ギリシアの哲学者プラトンが提唱した言葉で、それぞれが学問・道徳・芸術の追求目標となっています。

この「真・善・美」

私なりに解釈しようとずっと悩んでいたのですが、「美」だけがどうしてもわからなかったんです。

「真」であることは正しい。
「善」であることも正しい。

しかし「美」が正しいとは言い切れないよなぁと…

例えば、おそらく美人が全て正しい訳ではないでしょう?
しかし今日、「美」の意味を発見することができました。

モヤモヤが晴れすっきりしたので、備忘録の意味も兼ねてこちらに書きます。

まず「真」からです。

「真」とは考察することです。
常識に囚われず、「自分」と「世界」を考察する。
相対的視点ではなく、絶対的な視点で「自分」と「世界」を捉える。

このために、私は「哲学」の本を読み「心理学」の本を読んでいます。
こうして知識を集積すると「善」が見えてきます。

「真」を見つめると、「善」を目指すことがあながち無意味ではないことがわかって来ました。

何故そうなるかは、まだうまく説明できませんが知識の集積の結果、実感として持つことが出来ます。
と言うことでまず「真」があり、「真」を深めると「善」が理解できるという構図が今の私の頭の中にできている訳です。

ここまでは今までイメージ出来てきた内容です。
そして、ここに「美」がどうからむかが問題です…
それを今日、発見することが出来ました。

「真」は「私」のあるべき状態です(一人称)。

次に「善」は「私から○○さん」という関係性の中であるべき状態です(二人称)。
ここまでの中で、「真」と「善」は「私」がどうあるかもしくはどうするかという、「私」に属する概念でした。

しかし、「私」が理想の状態になっても、「世界」は理想の状態になりません。
そう、「○○さん」を変えることができないと「世界」は変わらないのです。

そこで、「美」が登場します。

「美」とは、「真」であり「善」である(つもりの)「私」が、「○○さん」にも「真」と「善」になってもらうために必要な力なのです。

例えば、「イジメ」をやめさせるためにどんな言葉をかけるべきか。
皆さんの経験則からもわかるとおり、

「イジメは間違っていることだよ」とか「イジメは悪いことだよ」っていくら言っても、イジメっ子は聴く耳を持たないでしょう。

そうではなくて、「イジメかっこわるいよ」です。

かっこいいスポーツ選手のメッセージとして、この標語が電車の中吊りで掲載されているのを見たことがあるでしょう?

「美」は価値観の違う人々にとっても、普遍的に共有できる「架け橋」となります。
「真」と「善」はその人の価値観によって千差万別ですが、「美」は多くの人と共有できる普遍性を有する概念なのです。

例えば、花は誰から見ても美しく、花を醜いと思う人はほとんどいません。

つまり、「美」に訴えることは、価値観の異なる他人に「真」と「善」を伝える効果的な媒体になり得るということ(三人称)。

そう考えると、「美」とは容姿のみではないと予想が立ちます。
リンカーン大統領は、「人は40歳過ぎたら自分の顔に責任がある」と言いました。

40歳になると今までの行いや自身の価値観等のこれまでの人生が、容姿にも表れてくるとリンカーン大統領は考えていたようです。
私もこれにはある程度同意出来ます。

初老以降の方の風貌には、その人の内面がにじみ出ていると感じることがよくあります。
柔らかい感じの方と話すとやはり物腰が柔らかいし、元気な感じの方に話しかけると元気な言葉が返ってきます。

逆もまた真なりです。

このように内面の美しさも外見に反映されるとなると、「美」のカバーする範囲が単なる目鼻立ちのレベルを超えて大きく広がることとなります。

「美」とは、その人の発するオーラと言ってもよいかもしれません。
すなわち、「背中で語る」ってヤツです。

人はそう言う「この人すごい」ってオーラを感じると、その人を見習いたいと自然に考えます。
例えば、私は先日会社の帰り道、風で倒れた空き缶のゴミ箱を見かけました。

空き缶は道いっぱいに広がっており、通行人が散乱した空き缶をよけて歩いています。
私は勇気を出して、その空き缶をゴミ箱に再度片付けていきました。

しかし、少し恥ずかしいなぁと思いながら片付けていたので、通行人から見たら怪しい人に見えたかも知れません。
もしこの時に堂々としたオーラを醸し出しながら、颯爽と空き缶を片付けていたらどうでしょう?

通行人は「この人スゴイなぁ。見習いたいなぁ。」と思うかも知れません。
あなたの経験と照らし合わせてみてください。

「美しい人」が行う行為と、「美しくない人」が行う行為。
この二者に対する周りの受け止め方が全然違うという現象は、おそらく実際ありますよね?
ゆえに「真」「善」を目指す人は、「美」も目指すべきだと思うのです。

己だけでなく、世界を「真」「善」にするために「美」を追求する訳です。
繰り返しますが、「美」は単に容姿のみを示すものではありません。
後天的な生き方によって身につく「美」が重要となります。

今まで私にとって「美」はとても苦手なジャンルでした。
外見にあまり頓着しないし、服装のセンスも全くない。
しかし私はこれから「美」も追求しようと思います。

外見にも気を使うし、運動して体を美しくし、勉強して自己実現を図る。
無駄な時間やお金をなるべく使わないようにして、時間やお金の使い方から雑味を取り去りクリアテイストな人生を心がける。

そうすることで、何かしらのオーラが出せるようになると私は思います。
だんだんとオーラが出てくると、私の行った「真」や「善」も周りの人に見習いたいと思われるようになるはずです。
僅かながらでも世界に「真」や「善」が広がる可能性が生じるならば、私は喜んで「美」を追求したいと思います。

ようやく「美」の意味がわかったような気分です。
「徳を積む」とは、こう言うことですよね。

【なぜ、当カウンセリングルームのロゴが「チューリップ」か?】

今更ながらではあるのだが、当カウンセリングルームにもロゴがある。

これは、わたしが今年の2016年4月1日に「スピリチュアルケアカウンセリング」を開業する2年ほど前から、自分のホームページを自分で制作するにあたり、すでに作成していたことです。

つまり、2年も前から開業に向けて準備をしていたと言うことになるかと思います。
自分で言うのも何ですが、おそらく将来起業するときに必要になると思って、せっせと下準備をしていたと言うことでしょう…笑

実際に、起業できるかもわからない状態で作ったのですが、今になってみれば作っておいて良かったと思っております。

今思うに、「我ながら良く作ったなー」と思います。
それだけ時間(暇)と、この分野の重要性を認識していたと言う部分もあるのですが…

最初は、「WordPress」なんて全然わからず、「ホームページビルダー」と言うホームページ制作ソフトを使って、しこたま触ってみました。

そこで感じたのは、今まではPC(パソコン)の時代でしたが、これからは「スマホ」「タブレット」の時代なので、それに対応する物を作成しなければならないだろう…

と言うことが判明しました。

ですので、ホームページは「CSS」ではなく「WordPress」で製作し、尚かつ「PC(パソコン)」「スマホ」「タブレット」に対応可能な物を作らなければならないと感じました。

また、「WordPress」はブログを作成するためのアプリケーションで、検索エンジンに強い(SEO対策に強い)と言う利点があると言う情報もキャッチしていましたので、もちろん私も「WordPress」を採用しました。

この辺は、数十年前まで某会社の「情報システム部」に配属して働いていたのが、役にたったのかも知れません。

さて本題に戻りたいと思います。
なぜ、当カウンセリングルームのロゴを「チューリップ」にしたのか…

ちなみに、わたし個人的には「チューリップ」をモチーフにデザインさせて頂いたのですが、中には「チューリップ」に見えないよ。

と言われる方もいるかも知れません。

でも、わたし個人は、あくまでも「チューリップ」を「モチーフ」とさせて頂いただけですので、個人的に製作し、気に入っていて「ピンクのチューリップ」に見えればいいじゃん!

なんて、思ったりしております(笑)

では、なぜチューリップにこだわったのかと言いますと、チューリップの「花言葉」と、うちの嫁さんの実家の側に、チューリップがたくさん咲いている場所があったからです。

チューリップの花言葉は「博愛・思いやり」ですが、チューリップの花の「色」によっても意味がまた変わってきます。

わたしが「ピンク色のチューリップ」にこだわったのは、ピンクのチューリップとしての「花言葉」が、また別にあったからです。

その意味はと言うと「愛の芽生え・誠実な愛」です。
これは、わたしのカウンセリングに対する「姿勢」そのもので、まずチューリップの花言葉「博愛・思いやり」が、わたくし自身のカウンセラー理念と一致しています。

そして、ピンクのチューリップの花言葉「愛の芽生え・誠実な愛」は、クライエントさんに対する姿勢そのものです。

2年も前から、開業に向けて自分の中の「理念」が定まっていたと言うことを、今となって自分の仕事に対する姿勢が「ぶれていなかった」と改めて気づかされ、そんな当カウンセリングルームのロゴを「誇りに」思いながら、クライエントさんのために頑張って行きたいと思います。

 

【無償の愛・博愛・慈愛・友愛・愛色々…】

いろいろな愛についてよく考えます。

【博愛】すべての人を平等に愛すること
【慈愛】親が子供をいつくしみ、かわいがるような、深い愛情
【友愛】兄弟間の情愛。また、友人に対する親しみの情。友情。友誼(ゆうぎ)

愛は考えるばかりではなく実行(実践)しなさい、このように言われるのも最もであることは分かります。
しかし、愛について考え思うとき、ほとんどの愛は、その者が持つ条件ゆえへの愛と言えないでしょうか?

その人自身ということがどういうことであるのか分かりません。
その人自身を愛するのではなく、その人の持つ何らかの要素を愛しているだけだと言えるかもしれません?

その人の持つ、優しさだったり、美しさだったり、心の清さだったり、誠実さだったり…
つまりそれは、条件付きの愛と言えませんかね?

日本語で「愛」と言ったとき、それは「感情としての愛」のことを指すと思います。

でも、「アガペー」を調べてみると、ギリシア語には「愛」を表現する言葉が基本的には3つ+1つあり、アガペー(真の愛)、フィリア(隣人愛)、エロース(性愛)、ストルゲー(家族愛)である。
と書いてあります。

このうち、キリスト教が最も重視して頻繁に登場するのは「アガペー(真の愛)」だそうです。
では、「アガペー(真の愛)」ってどんな愛なのでしょうか?

「アガペー」という言葉は、本当は「愛」と訳されるべきではなかったそうです。
日本語では、「大切にする」「大事にする」と訳されるべきものであったそうです。

つまり・・・

「神様があなたを大事にしてくれるように、あなたもあなたの隣人を大事にしなさい」
「自分を大事にするように、あなたの隣人を大事にしなさい」

「あなたの敵も、大事に扱いなさい」
と言うことをイエスはおっしゃったのでしょう。

「憎んでいる相手を、感情として愛せ」
と言う無理難題ではないそうです。

だから、キリスト教で言う「愛」=「アガペー」=「大事にすること」
=「神様が、良い人にも悪い人にも分け隔てなく食べ物や着るものを与えて大事にしてくれるような、愛」

と理解すれば良いと思います。

「あなたが例え嫌いな相手でも、大事にしなさいよ」
であれば、努力すればなんとか出来ないこともないのかなと思います。

【「愛」について】

日本語で「愛」とは一語ですが、古典ギリシア語では「愛」には3種類+1種類の意味があります。

アガペー、フィリア、エロース(エロス)、(ストルゲー)です。人間にはこの3つ+1つの愛が必要だと言われています。

アガペー・・・母なる愛、無償の愛、愛の中でも「自己犠牲が伴う愛」として捉えられるのはアガペーだけです。

フィリア・・・友情、友愛、純粋なこころで愛すること。兄弟愛。

エロース(エロス)・・・必ずしも肉体的なことを表現したものではなく、「エゴ」と「エゴ」のぶつかり合いの(お互いのエゴを理解しあう)愛です。男女の愛や性が伴う愛。

(ストルゲー)・・・家族愛、血縁に基づいた強い家族愛、つまり自然の情愛。

子供が生まれると、母からアガペー(無償の愛)を学び、母離れしたあと思春期までフィリア(友情)を学び、そのあとで男女や性愛の愛(エロース・エロス)を学ぶと言われます。

そして親になり、また子供にアガペーの愛を伝えて行きます。

この順番で愛を得られないと(母なる愛を得られない子供)、そのあとの2つの愛も自然に習得するのが難しくなります。そして「ストルゲー(家族愛)」は、親から子供まで全ての中に存在しなければなりません。

また、この3つ+1つの愛は交互に表れたりします。親子でもアガペーからフィリアの愛に変化しますし、エロース(エロス)の愛がアガペーやフィリアの愛になったりもします。

ナザレのイエスの弟子は、最初はアガペーの愛でキリストを愛しましたが、後にフィリアの愛に変化したとも言われています。

上記の解説は、カトリック系の本に書いてあったことですので、探せば3つ+1つの愛についてもっと詳しく書かれていると思います。

完全な存在である神から不完全で罪深い人間への愛
無差別、無償、無限の愛 ⇒ 隣人愛のモデル、民族を超えて広まる

ナザレのイエスは完全な人であったので、自らが十字架にかけられ血を流し罪深い人類の罪を背負いました。これがアガペーの愛です。

旧約では神に羊を捧げていましたが、新約ではナザレのイエスが純粋無垢な神の子羊としてその血を捧げました。このことでイエスは救世主となり、たくさんのキリスト教徒が生まれたと言うことではないでしょうか。

「隣人愛」はイエスがたとえ敵であろうと「隣人を愛しなさい」と言った言葉です。

敵や罪びとを愛しなさい。
と言ったイエスの愛は「無差別」であり、何の見返りもなく人類を罪から救った愛は「無償」であり、アルファでありオメガであるイエスは私の言葉は永遠であると言っています。

つまりイエスの愛は「無限」なのです。

昔、ユダヤ人は律法によって神を崇拝していました。
旧約を読むとたくさんの戒律があります。

ですが、イエスは戒律よりも大事なのは「愛」である。
と述べ伝え人気が出たため、それまでの信仰を覆す危険思想と思われました。
また、司祭はその地位を守るためイエスを殺す必要がありました。

たとえば、ユダヤ人が売春婦に石を投げるのを叱ったり、当時嫌われていた収税人をかばったり、当時戒律を守らずに罪びととして虐げられた人々をイエスが愛した例がたくさんあります。

しかし現在も争いは耐えません。
ナザレのイエスが問いたのはキリスト教ではありません。
イエスの「哲学」、言い換えるならイエスの「思想」を問いたのです。

多くのひと達が勘違いしているのは、イエスは民衆に自分の「哲学」や「思想」を問いたのであって、キリスト教を説いた訳では無いと言うことです。

そしてキリスト教を始めとする昔から続く宗教、神道、仏教、ユダヤ教、イスラム教など、法典と呼ばれる書物は、それぞれの宗教の元となるひと(哲学者・思想家)の言葉を弟子たちが「書物化」し、それぞれ独自の解釈を加えられた後に説かれています。

ここに大きな溝が生まれて来るのです。

偉大な宗教家として祀られているひと達は、自分で書物を書いたり残したりはしていません。
弟子たちが書き記し、それぞれの解釈が加えられ広まっているのです。

ですから、仏教にしても幾つのも宗派が存在しますし、またキリスト教でもカトリック・プロテスタントの中に更に細かく宗派が存在します。

また、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は、源流を辿れば同じ「創世記(旧約聖書)」だったり「天地創世」「創世神話」だったりします。
そのことは、この3つの宗教の起源の場所が同じエルサレムであることからわかります。

そして自分たちと近い、元々の源流が同じであるがゆえに分かり合えない、譲れない部分があるのではないかと私は思います。
それはカウンセリングの場でも同じです。

例えば、親子であるからお互い分かり合えるだろうと思っていても分かり合えないとすると、それは近ければ近いほど憎しみに変わり、相手を認めたくない、分かり合えるはずだ、許せないと言った感情が出てくると思うのです。

日本人は宗教心がほとんどの方はありませんが、世界に行くと宗教心は物凄く大きいです。
そして、それは民族を超えて強い繋がりを持っています。
わたし達は、同じ倭(大和)民族であり、信仰心をほとんどの方たちは持っていません。

では、何をこころの拠り所にして行けばいいのでしょうか。
私は昔からの日本文化の中で培われて来た「道徳」にあるのではないかと思います。
しかし残念ながら第二次世界大戦以降、日本人は「教育勅語」の関係で、正しい「道徳教育」が行われなくなってしまっているように感じてなりません。

そしてアメリカから日本に、アメリカの資本主義的思想が正義であると言う名のもと経済成長を遂げ、今やGDPでは世界トップクラスまで登り詰めました。
しかし、それと同時に失われて来たものも沢山あります。

経済成長を遂げる日本の中で、経済優先で自国のことについてや日本社会について関心が薄まり、利己主義的思想があたかも成功者のような風潮で、富を得た者が成功者として称えられ、今の日本社会ではそう言ったひと達が成功者のお手本であるかのよう、賞賛されているよう感じてなりません。

そしてその結果、世代格差や貧富の差、そして自分や家族といった身内以外のことについては興味を示さなかったり、観て見ない振りをして来たのではないでしょうか。
それが今になって大きなつけとなり日本国内は逼迫し、世界における日本国の情勢は厳しいものになっているように感じてなりません。

皆さんもご存知のマザー・テレサは言いました。
「愛情の反対は、無関心・・・」

この言葉こそ今、日本社会に漂う風潮を表しているのではないでしょうか。
そして私たちの住む日本国土は今、大きな転換期に来ているように感じます。

それは日本を取り囲む各国(東シナ海側の国・日本海側の国・オホーツク海側の国・太平洋側の国)が、
三国志のように日本を取り囲み、睨みあっているからです。
そして、そのことに対して日本国民や日本国政府、そしてマスメディア等は、観て見ない振りをしているように感じるからです。

おそらく一部のお金のあるひと達は、ひょっとしたら何時でも日本国を捨て、第三国に逃避するかも知れません。
現実に東日本大震災(3.11)の福島第一原発事故で、関東地方に放射能汚染物質が及ぶ恐れが出た時に、西の方や海外へ出国したひと達がいたのですから・・・

多くのひと達は愛国心など持っておらず、ビジネスとして日本国に留まる必要性が無くなり、他の第三国のほうが治安や安全が担保され、生活する上で困らないのであれば、簡単に日本国民を捨てるのでしょう。でも私は思うのです。

おそらく、何も政治や自国のことについて今まで真剣に向き合ったことがないひと達が、第三国に逃避したとしても、前からその地に住むひと達に、後ろ指を刺されながら生活を送ることになるでしょう。
そして自分の生まれたルーツなんて気にしないで、その第三国のひと達の渦に飲み込まれ、淘汰されて行くのではないかと私は思います。

それだけ世界各国のひと達は、宗教や民族と言うものを大切にしていますし、自国民としてのプライドも持っています。
だから日本人が旅行や留学をした時など、地元民から日本の「宗教」や日本の「文化」「伝統」と言うものを聴かれ、尋ねられたりするのです。

そして海外の地元民から日本のことを質問された時に、日本人は初めて自分が「日本人」であることを意識させられることになるのです。海外の国へ永住・移住する時には、ほとんどの国では、自国の「歴史」「文化」「語学」をチェックされ、それなりの「宣誓」を交わして、国民としての義務を果たすことを誓うのです。

わたし達は愛国心までとは行かないまでも、日本国民であると言う「プライド」を持つ必要があります。
それがあって初めて、日本国の「政(まつりごと)」を執り行うことが出来るのです。その中には当然、選挙等へ参加して国民の権利と義務を果たす必要があります。

仮に、選挙権を持っているのに行使せず、国や自治体と言った「政(まつりごと)」を行っているひと達を非難するひと達がいたとしたら、それは自分の権利と義務を果たさなかった自分にも責任があるので、国や自治体と言った「政(まつりごと)」を行っているひと達を責める権利も、当然私は無いと思っております。

スポーツにおいても同様で、国際大会で勝つためには、選手(プレイヤー)としての「誇り・プライド」と共に、日本国民としての「誇り・プライド」がなければ、いくら体力的・技術的力があったとしても、精神面では負ける可能性が大きいでしょう。
わたし達はもっと、日本国民としての「誇り・プライド」を持って、視野を広げていろいろな日本のことに関心を寄せる必要があるのではないでしょうか。

それがきっと自分の精神的支柱となって、また「自分は社会の為に、社会は自分の為に」と言った、利己主義的な資本主義社会ではなく、地域全体や社会全体、そして世界全体を大切にする「共和主義」の社会へと転機するきっかけになればと思っております。そしてそれが結果的に、「国民の幸せと世界の平和」に繋がるのではないでしょうか。

【とまり木カフェを続ける理由】

今、カウンセラーとして臨床の場で活躍しようとするにあたり、カウンセリングルームでクライエントさんとカウンセリングすることが一般的だと思います。

しかし、そうしたスペースで、いわば密室でカウンセラーとクライエントさんが対峙してクライエントさんの話に耳を傾け、傾聴することも必要だとは思いますが、予防医学や精神療法のひとつとして、ロジャーズが提唱したエンカウンター・グループ形式(カウンセラー、クライエントさんが複数の双方が集まって対峙する技法)が、今後ますます増えて行くように感じられます。

一番のメリットは、費用を抑えて安く行うことができる。
また集団(10名以内)で行うことで、一度に数名のクライエントさんをカウンセラーは診ることができるという点があります。
そして、スーパーバイザーがスーパーバイジーに教育訓練する上でも非常に有効な手段であると思われます。

そう言った意味では、コンサルテーション(問題を抱えているクライエントさんと関係の深い人物に、
カウンセラーの立場から提案・助言などを行うこと)にも有効ですので、学校現場で問題を抱えている担任、職場の上司など、自らの力でクライエントさんの問題をサポートできるようなサポーターを作ることに役立つと思います。

クライエントさん、サポーター(援助者)が加わることで、この「とまり木カフェ」が成り立ち、双方にとって安心、安全な環境つくりを目指して行きたいと思っております。

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【スピリチュアルケアカウンセラーとしてのわたくしの『軸』とは?】

ブログのプロフィールの紹介で、スピリチュアルケアカウンセラー(心理カウンセラー)としてやっていく際に、わたくしの『軸』が定まったとお伝えしましたが、今回それについてお伝えしたいと思います。

2016年4月1日より、スピリチュアルケアカウンセラー(心理カウンセラー)としてやっていこうと決意したのは、自分の中に『軸』が定まったからです。

自分のやってきた(学んできた)ことの自信と、何を大切にスピリチュアルケアカウンセラー(心理カウンセラー)としてやっていくか・・・

と言うことが、定まりました。
それは私の場合、『枠』です。

『枠』とはカウンセリングを行う際、クライエントさんにカウンセリングを行う「時間」であったり、クライエントさんから頂く「お金」だったりします。
「時間」で言うと、クライエントさんがカウンセリングを受けられる時間が人それぞれあると思うのです。

その『枠』(時間)があるからこそ作られる「構造」があり、限られた『枠』(時間)の中でどう組み立ててカウンセリングを行っていくべきかと言う「構造」があります。

「お金」についても同様に、クライエントさんが出せる『枠』(お金)があると思います。
その『枠』(お金)の中で、いかに「構造」を作るかを大切にしたいと思っております。

そう言った『軸』となる物が自分の中に定まったので、4月1日よりスピリチュアルケアカウンセラー(心理カウンセラー)としてやって行こうと決意しました。

わたしにとって、この『軸』となる『枠』こそがカウンセリングにおいて、大切にしたい部分であります。

そしてクライエントさんが、例えば「パニック障害」で電車に乗ることが出来ないとした場合に、電車で「目的地」まで移動できる様になれば良いのか、また電車に「乗れる」ところまでで大丈夫なのか、それはクライエントさんが決める『枠』です。

ですので、最初のコントラクトでクライエントさんの目指す「目的地(ゴール)」(枠)をクライエントさんに決めてもらい、カウンセラーはその『枠』の中で、いかに「構造」(組み立て)を行うかという、「アセスメント」を総合的に行います。

その際、クライエントさんの目指す「方向性」が変われば、再度、リ(再)・コントラクトを取り、もう一度「アセスメント」を構築する必要が出てくると私は思います。

「エビデンス」も必要かも知れませんが、問題の「根拠」「証拠」を探るのは、必ずしも自分は「必要ではない」と思っています。クライエントさんの問題の「根拠」や「証拠」がわかったとしても、必ずしも「解決策」が見つかるとは限らないと思いますので・・・

その辺のアプローチの仕方は、「ドクター」と「カウンセラー」では「立ち位置」が大きく違う点だとわたしは思います。
もちろん『一致(自己一致)』『無条件の肯定的関心、受容』『共感的理解』は、当然あっての話しですが…

【わたくしがどうして心理カウンセラーになったか?】

まず、わたくしは大学を1996年、ちょうど阪神・淡路大震災があった今から20年前に大学を卒業して、とある理化学メーカーに、開発部門(電気・電子設計)として就職しました。

その勤め先で、部署の変更等で、情報システム部門や開発部門を経験したのですが、2001年に部署ががらっと変わり、また結婚、引越しも重なったせいもあり、「うつ病」を発症しました。

そんな中でも、自分はダメ人間だと思いつつ、5年ぐらいは、有給や休職、欠勤しながら勤めました。
そのとき、自分は本当に「生きてていいのか・・・」と何度も思いました。

欠勤が続き、やむなく会社からは「自主退職」ではなく「会社都合」として配慮頂き、「退職」することになりました。
(確か2005年頃)

その後通院する中で、「うつ病」から「双極性障害」と診断されるようになりました。
(こういうケースは、良くあることです。)

細かい話ですが、「双極性障害」でも、I型、II型があり、わたしの場合はI型でした。I型は、躁状態(ハイテンション・高揚状態)の時と、うつ状態の時があります。

うつ状態の時に、わたしは2週間ぐらい寝込みました。また、躁状態の時には人に迷惑をかけたり、攻撃的になったり、買い物依存性になったりもします。

わたしも2回程、精神病院の閉鎖病棟に入院しました。1回目は躁状態で、2回目はうつ状態で、確か共に1ヶ月ぐらいでした。
また、自殺企図も経験しました。

そんな中で、だいぶ状態も落ち着き始めた2013年に、とあるセミナーをきっかけに「一般財団法人 尚徳学園」と言うところで「人間学」を学び、「人格(人間性)」を磨く勉強をしました。

それは、教わるものではなく「自分を探求」する学問です。
その為には、「哲学」「スピリチュアルケア」「心理学」を中心としたことを学びました。
(スピリチュアルケアについては、Wikipediaでお調べください。)

そして、その学びの中で「学問」を「実践」に生かす為に、「心理学」をより深く勉強しました。
最初は、大学院に行って「臨床心理士」になるための勉強をしていました。

しかし、大学院に行くためには、まず大学院の試験に合格する必要があります。
また、大学院に2年行った後に「臨床心理士」の試験に合格する必要があります。

わたしの年齢は既に40歳を超えており、また結婚して2人の子供もいます。
「臨床心理士」になる為に、2年という年月と、お金をかける価値が果たしてあるか…?
と考えました。

そして私の出した答えは、大学院に行くのはあくまでも「心理カウンセラー」になるための手段にすぎないという答えです。
ですので、わたしは実践の学べる心理カウンセラーの専門学校に行きました。
そして、民間資格もとりました。

また、一番おおきかったのは、心理カウンセラーとしての「軸」が定まったからです。
(「軸」については、ブログでお伝えしております。)

わたしが自分自身の病と向き合うために、最初は「心理学」を勉強し、そしてわたしの経験を活かしたいというところでしょうか?

但し、わたしの経験を押し売りするつもりは、もちろんありません。

【いち心理カウンセラーとして思うこと】

心理カウンセラーとひとくくりに言っても、いろいろな人たちがいます。
その人たちの数だけ、ものの捉え方、考え方も、それぞれ違います。

でも、わたしは同じ心理カウンセラーとして「譲れる」部分と、「譲れない」部分があるのではないかと思います。

最終的に決めるのは「クライエントさん」です。
心理カウンセラーは、それぞれ自分のポリシーというか「軸」さえしっかり持っていれば、わたしは良いと思います。

「真理」を追求すればするほど、常に自分と向き合い、「葛藤」の連続です。
そして「真理」には、「答え」がないものだと思います。
それは「真理」は常に「絶対的」存在で、生きているだけで罪深い人間にとっては、それは不可能であるからです。

わたしも、ひとりの人間です。
もちろん存在するだけで、罪深い存在です。

それは、人間が「自然の摂理」に反して生きているからです。
自然こそが「真理」という「絶対的」存在であり、我々は自然の「摂理」とは違う、「文明」や「文化」というものを作りあげているからです。

また、宗教を信じておられる方は、宗教で言う「神」を「絶対的」な「真理」と言うかもしれません。しかし、日本人のほとんどは多神教だったり無宗教や自然宗教だったりします。
そしてほとんどの方は信者として信仰していません。

そうした中で何を「真理」とするか疑問が残ります。
わたしは、先の先人が残した「哲学」にその表象があるように感じました。
ですので、わたしは「哲学」を学び、そして「倫理学」「道徳」を広い視野で、物事を判断する必要があるように感じています。

そういう訳で、自分の「道」を多角的に判断し、今後も歩んで行きたいと思っております。